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2004年末に「うつ病」の診断書が出て、翌年3月に職場を退職…人生の歯車が狂って急転直下の転落人生から「再生の道」を探す日々の記録です。 病気の回復はゆっくりですが、焦らずに、めざすは「社会復帰」です!
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干支4周目に突入したアラフォー男子です。仕事しすぎてリタイアしちゃいました。こんなブログを応援してくださる奇特な方は、ポチッとCoRichを押してチョ。
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朝は普段どおりに起床。
日中は株見て過ごす。市場が終わって、16時ころだろうか。昼寝のつもりで少し横になったつもりが目が覚めたのが…なんと23時すぎ

寝過ぎ。

僕は夢を見ることは滅多にないんだけど、おもしろい夢を見た。
ワーキングホリデーみたいなものだったのだろうか、何と僕が行ってステイした先は・・・


”金星”


地球じゃねぇの(笑)
「やっぱ携帯は圏外だわ」とか、
「地球と自転・公転の周期が違うから、カレンダーも合わないっすね~」とか、
「太陽が近いから日中は暑過ぎるので外出禁止」とか・・・
わりとリアルっぽい事いってんの。笑える~

んでもって帰るとき、「この穴通ると、上海に出るから」とか。シャトルじゃなくて、ワープするのね。それにしても、なぜ中国

いやーとにかく、わけのわからん夢でしたわ。
うなされない様な夢を見たのは、ほんとに久しぶりの事です。
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僕は電気系の学校を卒業して、電子精密機器の設計なんぞに携わっていた経歴がある。また、使った事はないが「第2種電気工事士」という資格も持っており、生粋の「電気屋さん」と思っておっておる。自分では。

ちなみに「電気屋さん」というのは、いわゆる町の電気屋というのではなく、業界用語とでも言おうか…「電気系エンジニア」の事をいいます。僕は「電気屋さん」という呼び方が、何だか温かくて好きです。

そんな話は、ちょと横に置いておいて…

一昨日、「元気に百歳」クラブの季刊誌発行のお手伝い…とは言っても、紙を折りたたんでいるだけの作業なのでクチは暇。まぁ、雑談などしながらやってるわけだけど、そこで僕に対して「プログラマー」という表現を使ったのを聞いて「ハテ?」と妙な違和感を感じたわけ。
思い起こしてみると、お仕事を辞めてから、「元気に百歳」クラブのボランティアとか田舎でくらいしか新たな人間関係は無いんだけれど、どうも皆さん僕が「パソコンに詳しいおっさん」=「その道の人」という解釈のほうが理解しやすいからか、パソコン関係の人と思われている場合が非常に多いのである。

従姉が「プログラマー」だと言ったのは、僕が封筒を印刷するためのソフトを作ったのを受けての話なんだけど、本業を離れて、こう「パソコンのトラブルを聞ける人」でアテにされたり、「プログラマー」とか言われたりしていると、なんだか自分でも自分が「なに屋??」なんだか解らなくなってくる。


僕は「電気屋」。
百歩譲って、「エンジニア」であります。


でも、守備範囲が広すぎってのもあるのよね。結局、僕は「何屋さん」になりたいんだろう・・・なぞ。
昨夜、インターネットをなにげなく見ていたら、21:30から緊急記者会見があるという報道記事が出ていたので注目していた。内閣改造人事から1ヵ月。まさかの辞任表明

おいおい、いーかげんにしてくれよ。

安倍前首相のときもそうだったが、これじゃあ政治が機能しない。閣僚は在任期間が短すぎて、さてこれでやっと仕事を始めようか・・・という矢先に総辞職だ。政治不安がどんどん大きくなっていく。

いっそ衆議院解散・・・というのも頭をよぎるが、仮に政権交代になったとしても民主党の政権担当能力は、はっきりいって心もとない。民主党は長く野党という座に居て、マニフェストもロマンティックすぎてリアリティを欠く。
与党を野次ってるのが民主党としても居心地がいいのでは??


福田総理は僕個人としては評価している。
自民党は参議院で過半数を握られて『ねじれ国会』を生んだのが、そもそも政治が膠着した原因ではあるが、そもそもの原因は、公明党という『毒』を飲み、連立したことに問題があったように思う。野党に対抗するための苦肉の策であったのだろうが、体力を失い様々な制約の中でしか運営できなくなった状況で、なんとか前へ進もうとした真面目さを僕は感じている。

ただ、ひとこと言いたいのは・・・彼の出身である地元の某ゼネコン企業。
そこの株で、僕はウン百万の大損をぶっこいて、そのお陰で僕は生活危機状態だ。
本音を言えば、地元に金を落として活性化してほしかった~

まぁ今の時代、それを許さないんだろうけどね。
彼女の出身は、東京都で唯一の村である檜原村です。
今日は、お祭りがあるという事で、お誘い頂きました次第です。

東京では、夜になると集中的な雷雨に見舞われていまして、日中は陽が射していて安心していたのですが、夜になると案の定のドシャ降り

彼女のご実家はJR駅前から山を延々と上った先にありました。エラいとこです。
ご実家には、彼女のお父さんの仕事仲間や御親戚が集まっていて、盛り上がっていました。完全に僕だけが『ヨソ者』だったのですが、温かく迎え入れて戴いて、おいしいお酒をたくさん飲んできました。

しばらくご実家でお世話になって、22時もだいぶ過ぎたころ、お祭り見に行こうか~という話になって、さらに山を車で登ること2~3分。現地に到着。獅子が舞っていました。こちらでは『獅子が狂う』と言っているようですが。メス1匹をオス2匹が取り合っているんだって。

このお祭りには、村1番のべっぴんさんが4人(1番が4人??)選出されてお役目をしているという話を聞いて、とても楽しみにしていたのですが、時間が遅いとベッピンさんの年齢がグンと上がるとか・・・。
僕が行ったときには、どちらのベッピンさんも不在でした。残念。

彼女の家は、3人姉妹。ひとりお嫁さんに行っているんだけど、そのダンナさん(偶然にも同じTAKEさん)はお酒を飲まないとか。彼女のお父さんは、彼女がお酒を多少飲める男友達を連れてきてくれた事を喜んでくれたみたい。そのあと、近くの飲み屋に誘われて、夜中の2時過ぎまで飲んで語りました。


一同に会したのは10人ほどでしょうか。そのうち3名の方が、なんと今年山口県を訪れてくれていて、岩国が誇る名橋『錦帯橋』を見て下さっていたのには感動をしました。うれしいことです
昨夜はドタバタと慌ただしく過ぎました。
喪主となる父は、葬祭会場に留まり、弟は昨夜のうちに帰宅。

明くる17日の朝、弟夫婦と義妹は無事に帰宅の途につきました。

母と僕は、今夜営まれる祖母の通夜と告別式のための準備をし、夕方に自宅を出発。会場のある広島・五日市まで車を走らせ父と合流。

長く祖母を介護した父の妹にあたる叔母と、隣に住まいする父の姉にあたる伯母と会場で会いました。我々一家をのぞく地元の身内達は、みなさん最期を看取ることができたとの事でよかったです。

お通夜は、親族のみで行われ、実子からその孫の世代までが一同に会しました。人の死は辛いことですが、人を集める力があります。大家族から核家族そしてさらにマクロに家庭を営むようになった現代、親族という近しい間柄でありながらも、なかなか一同に会する機会というものがなく、縁が希薄になりがちですが、親は子孫への最後のプレゼントとして、こういう機会を与えてくれるものなんだなぁ~ということをしみじみと感じます。

そして、自分の元にみんなが集まってくれたことを、祖母はあの世から見て何より喜んでいると思います。


今晩は、我が一家は葬祭会場で祖母と一緒に一晩を過ごします。
僕は慌てて出てきたせいで、お薬を一式忘れ不眠症が炸裂。さらに喘息を併発したが吸入器も忘れ、結局一睡もできず、祖母のご遺体と遺影を前に、一夜を過ごしました。

隣では、猛禽獣のような轟音を立てる母と、トドのように腹を出して眠る父が眠っています。あまりにおかしくて祖母もこれを見てきっと大笑いしていることでしょう。
この日は、リハビリ施設から転院したと聞いた広島の祖母のお見舞いに行くことになっていました。
父に伴われて、僕と弟の3人。午前中に家を出発して、渋滞に巻き込まれながらも昼ころに到着。

久しぶりに拝顔した祖母は食事も採れず点滴。とても痩せていました。
目は開いていて、どこかを見据えているように見えましたが、意識はどこまであったのでしょう。耳元で『おばあちゃん~TAKEだよ~』と叫んでみたけどリアクションはなくて、握った手にも力が無い。
ただ、心拍なども監視されている状況だったし、表情に痛みを感じている様子も伺えなかったので、いますぐどうなるという感じではなく、ひとまず安心をして帰途につきました。

帰宅をしたのは2時過ぎ。
ダイニングで一服していると、ほどなく危篤の一報が入り急転直下。

とりあえず実子である父が、とんぼ帰り。だがここは田舎町、電車が少ない。
40分ほど電車を待っているうちに息を引き取られたと電話が入る。
午後4時ころ。享年95歳。

急な訃報に、我が家は大わらわに。
来客が身内だったのが不幸中の幸いでした。帰宅が明日に迫っていた弟は、幸いにも祖母にお別れができる機会に恵まれ、喪主となる父を伴って再び広島へ。

母と僕は、おそらく翌日になるであろう通夜と告別式に備えて自宅で準備に追われています。


僕にとっては最後の祖父母でした。
施設から病院に移って半月ほど。延命措置を拒否していたとはいえ、あまりに加速的にその時が訪れました。
人の死というものを自然に委ねると、まさにロウソクの最後の灯が消えるように儚いものであると思わされます。
小2の義妹は今日も絶好調です

お天気もよく、さっそくマイビーチで海水浴です。
おっちゃん、一生懸命お相手するけど、パワー負けです

引率者の弟夫婦は、義妹のターゲットが僕に向いているのをいいことに、忍者のごとく気配を消します。


僕も数年前までは、普通にお仕事をしていたわけですが、その頃は常にストレスに晒されてツンツンしていたせいか、表情もこわばっていて、子供が怖がって寄りつくことさえありませんでした。
いまは、こうして僕の前で笑顔を見せてくれる子供が居るということが、なんだか不思議な気持ちです。子供はとても敏感だから、僕自身ではあまり実感ができない精神的なゆとり、接する温もりのようなものを感じ取ってくれているのかもしれません。

お仕事を辞めてしまって、社会的にも経済的にも失墜してしまった僕だけど、失ったものばかりではないなぁ~という事を実感させてくれるのが、この子の笑顔のように感じられる今日この頃です。


しかし・・・疲れます。
救える命
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