2004年末に「うつ病」の診断書が出て、翌年3月に職場を退職…人生の歯車が狂って急転直下の転落人生から「再生の道」を探す日々の記録です。
病気の回復はゆっくりですが、焦らずに、めざすは「社会復帰」です!
Twitter
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
クリックをお恵み下さい
カテゴリー
ブログ内検索
フリーエリア
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この日は、リハビリ施設から転院したと聞いた広島の祖母のお見舞いに行くことになっていました。
父に伴われて、僕と弟の3人。午前中に家を出発して、渋滞に巻き込まれながらも昼ころに到着。
久しぶりに拝顔した祖母は食事も採れず点滴。とても痩せていました。
目は開いていて、どこかを見据えているように見えましたが、意識はどこまであったのでしょう。耳元で『おばあちゃん~TAKEだよ~』と叫んでみたけどリアクションはなくて、握った手にも力が無い。
ただ、心拍なども監視されている状況だったし、表情に痛みを感じている様子も伺えなかったので、いますぐどうなるという感じではなく、ひとまず安心をして帰途につきました。
帰宅をしたのは2時過ぎ。
ダイニングで一服していると、ほどなく危篤の一報が入り急転直下。
とりあえず実子である父が、とんぼ帰り。だがここは田舎町、電車が少ない。
40分ほど電車を待っているうちに息を引き取られたと電話が入る。
午後4時ころ。享年95歳。
急な訃報に、我が家は大わらわに。
来客が身内だったのが不幸中の幸いでした。帰宅が明日に迫っていた弟は、幸いにも祖母にお別れができる機会に恵まれ、喪主となる父を伴って再び広島へ。
母と僕は、おそらく翌日になるであろう通夜と告別式に備えて自宅で準備に追われています。
僕にとっては最後の祖父母でした。
施設から病院に移って半月ほど。延命措置を拒否していたとはいえ、あまりに加速的にその時が訪れました。
人の死というものを自然に委ねると、まさにロウソクの最後の灯が消えるように儚いものであると思わされます。
父に伴われて、僕と弟の3人。午前中に家を出発して、渋滞に巻き込まれながらも昼ころに到着。
久しぶりに拝顔した祖母は食事も採れず点滴。とても痩せていました。
目は開いていて、どこかを見据えているように見えましたが、意識はどこまであったのでしょう。耳元で『おばあちゃん~TAKEだよ~』と叫んでみたけどリアクションはなくて、握った手にも力が無い。
ただ、心拍なども監視されている状況だったし、表情に痛みを感じている様子も伺えなかったので、いますぐどうなるという感じではなく、ひとまず安心をして帰途につきました。
帰宅をしたのは2時過ぎ。
ダイニングで一服していると、ほどなく危篤の一報が入り急転直下。
とりあえず実子である父が、とんぼ帰り。だがここは田舎町、電車が少ない。
40分ほど電車を待っているうちに息を引き取られたと電話が入る。
午後4時ころ。享年95歳。
急な訃報に、我が家は大わらわに。
来客が身内だったのが不幸中の幸いでした。帰宅が明日に迫っていた弟は、幸いにも祖母にお別れができる機会に恵まれ、喪主となる父を伴って再び広島へ。
母と僕は、おそらく翌日になるであろう通夜と告別式に備えて自宅で準備に追われています。
僕にとっては最後の祖父母でした。
施設から病院に移って半月ほど。延命措置を拒否していたとはいえ、あまりに加速的にその時が訪れました。
人の死というものを自然に委ねると、まさにロウソクの最後の灯が消えるように儚いものであると思わされます。
PR
この記事にコメントする