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2004年末に「うつ病」の診断書が出て、翌年3月に職場を退職…人生の歯車が狂って急転直下の転落人生から「再生の道」を探す日々の記録です。 病気の回復はゆっくりですが、焦らずに、めざすは「社会復帰」です!
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干支4周目に突入したアラフォー男子です。仕事しすぎてリタイアしちゃいました。こんなブログを応援してくださる奇特な方は、ポチッとCoRichを押してチョ。
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数日前の朝日新聞に、認知行動療法が見直されているという記事が出ていた。
この療法は、事象とその時の気持ち・感情を記録していきながら、自分の思考パターンの悪いところを修正していく。従来からあるものだけど、僕はやったことがない。

この記事では、上司・後輩の思惑の板挟みになって、うつ状態になってしまったという、あるサラリーマンを例に挙げて認知療法を行って、すべて「自分が悪い」で片づけていた思考パターンに(医師やカウンセラーの)客観性が加わることで、「あの人は非常識」だとか「それは自分のせいではない」といった違う結論を導きだすことで、悪い思考循環から脱却させる・・・というけど、それが何の解決になるの?と思う。

この件でも、もっとも重視すべき要点は別にあると思う。

「あの人は非常識」だから、それを諌めるのか。

「自分のせいではない」なら、いったい誰のせいなのか? 責任はどこにあるのか?

こういうことをグズグズとさせたままだから、結局は自分のところでオトさざるを得ない・・・これが、うつ病になりやすい人の典型パターンなのだ。

こうならないために、自身も、他人に対しても、過ちは正し、より良い方向性を探求する。しかし、たいていの人間は、否定されるとムキになり、懐の狭い人に至っては、それだけで疎遠になる。

じゃあ、なんでも「見て見ぬふり」で徹すればいいのか?
それが上手にできれば、ウツからは解放されるかもしれない。でも、ほんとにそれでいいのかって思う?

悪いと思う事は悪い。

良いと思うことは良い。

譲歩はどのポイントで譲歩したのか。

仕事ということなら、責任はどこか。その責任はどうやって取れるのか。

そういう事を、グズグズにする人があまりにも多すぎるから、解決に腐心する人がウツになる。


僕の周りにも、こういう事をパキッとやってくれる人は皆無。

みんなグズグズのドロドロ。

それで繋がってる人間関係って不思議。僕はますます人間不信。


ただ、行動認知を取り入れると、少なくとも病院の「3分診療」から変化が出るかもしれないので、今度申し入れてみようと思う。「あなたは潔癖だ」と言われるのが関の山という気がするけども・・・。
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「うつ病」という診断から丸5年が経ち、今は病気だと言われることにホトホト嫌気がさしている。

うつ病だったなと思える時期もあったけど、もうそれは治っていて、今は正真正銘の「怠け者」だと自覚している。

気力がないのも、そのせいだと思っている。

以前は、目標を見据えて、その道を探したり開拓したりしてきた。今は道を探すことはおろか、目標さえない。


なにをしたらよいか解らない。


なんのために生きているのか解らない。


今、僕は「生きている」のかも解らない。
気力が出ない。何もしていないのに、ひどい疲れだ。

お腹は減るけど食欲がない。
食事を見るとウッとなり、食べた後に戻ってくることもある。
今の一日の中で、この食事の時間が最大の苦痛だ。

今ほど気力減退をしていない頃でも、「働かざるもの喰うべからず」の戒めがあって、食べるという事に罪悪感があった。今は「食べる事は生きること」という思いが、自分の希死願望に反応して、自己矛盾の思考ループに陥ってしまう。

はじめは、食卓にたくさんの食事が並んで、それだけでも辛かったが、最近は母が察したのか、だいぶ量を減らしてくれている感じ。でも食べたくない気持ちは同じ。

食卓にならぶ、牛も豚も鶏。きっと彼らの中には生きる喜びを感じていたのも居ただろう。それを殺めて、生きたくないと考える人間が生きるためにそれを食す・・・この不条理が僕にとってはたまらなく辛い。

両親はテレビを観ながら食事をする。このテレビも僕にとってはかなりキツい。
でも、別室で一人で食べるのも変だし我慢をしてその場に居るけど、顔面が引き攣ったり、目元や口元が痙攣してきたりするので、顔を洗うように、何回もゴシゴシやって筋肉を弛緩させる。


祖母が亡くなる前の事を思い出す。
元気がない祖母は食事ができずに衰弱していってしまい、少しでも食べて貰おうと周りはずいぶん苦労をした。でも今にして思うと、食事ができなかったわけではなく、暗に食べることを拒んでいたように感じることがある。おそらく、祖母はあの段階で、死を望んだのではないかという事が妙に共感できるのだ。


今、僕が率直に感じるのは、「万物の命を犠牲にしてまで、生きることに執着はないし、その資格もない」
あるとき父が、ニュース番組を見ていて

「ルールを守らないやつは、みんな消えればいい」

と吐き捨てるように言い放った。


あるとき弟が、接客が上手じゃない店員を見て

「あんなのクビにしろよ」

とサラッと言った。


あるとき弟が、ある出来事を話していて、

「あんなやつ、シネって感じだよ」

と話をオトしたら、みんながワッと笑って、その場が俄かに華やいだ。



彼らが時折見せる剥き出しの牙が、人間の本音の所在を思い知らせる。

彼らが見せた本音は、僕に対して「あなたは居ないほうが良かったよね」と、そう言っているように聞こえてくる。
昨日は一日中雨で寒かったけど、今日は小春日和。暖かくて防寒着は必要なかった。

ところが調子は最悪

おそらく、ここ数日の勉強が祟った。

久しぶりに、スペックシートやら資料やら・・・英文と長時間にらめっこ。やっている間は、英気に満ちていて「仕事できそうだー」なんて楽観的だったのに、一日明けると寝たきりになってしまう。夜、悶々と考え込んでしまって寝付きが悪くなる結果、朝は目覚ましが聞こえずに変な時間に起きる。バイオリズムがすっかり狂ってしまい、何も手がつかなくなって、寝込んでしまう。

昨日の楽観を悲観に変えるに十分な現実。。。

少し調子が出て、「やってみよう!」と挑戦をしても、その後また寝込んでしまって辛くなる。ひたすらこれを繰り返している。どうすれば、この循環から出られるんだろう?って思う。頭を使うことが出来なくなってしまったのかなって思うと絶望的。体力勝負できるような身体じゃないし、頭をウリにするしかないんです。。。
一晩明ければ・・・という淡い期待は儚くも裏切られた。

身体が重くて起き上がることができない。
久しぶりに昼まで眠り続けた。

昼過ぎに起き出してみたものの、あいかわらず頭も身体も重くて、陽射しが痛い。

気晴らしに、ふらりと海に出た。
そこで、波打ち際で遊んで(?)いた小鳥に出逢った。近づいていくと、間合いを取るように小鳥はヨチヨチと歩いていってしまう。「こっちにおいで」と言われているようで、その後を追いかけるように付いていった。20分ほど延々と歩き、とうとう先が行き止まりという所まで行くと、小鳥はサーッと空へ飛び立ってしまった。そっちには行けないよ・・・。

一人取り残された僕は、堤防の脇から階段を上がって、海づたいの道を行って、そのまま帰宅。気がつけば1時間ほど経っていた。1時間も散歩をすることは滅多にないことでビックリした。


小鳥と海に元気を分けてもらえたのか、その後から少し復調。


今回の落ち込みのキッカケは、読んでいた本。
パソコンの関係の本を読んでいたんだけど、コンピュータには長じていたはずの自分が、時代の進化に明らかに取り残されたという衝撃と失望感を受けた。わからないアルファベットの略語が次々と出てきて「多少は解ってる」という天狗の鼻をへし折られた気分。その挫折感が学習意欲を超えてしまった。

自分が得意であったはずの分野は、日進月歩の進化をしている。止まったままの僕の知識は、日進月歩で退化する。これ、相対性理論なり。
帰省の日程を立ててから

健康保険証の更新
漏電ブレーカーの設置工事
積立金の支払い
オークションの取引完了

など、予定の立たない未解決用件が重なっていて、どうしたものか・・・と頭を痛めていたのだけれど、土曜日までに全てが終わり、憂いがなくなり一安心。

巷では昨日からシルバーウィークに突入。シルバーウィークの『シルバー』は、ゴールデンウィークの次という意味なのか、敬老の日を挟む意味でのシルバーなのか・・・。まぁそれは良いとして、テレビでは下り線の渋滞騒ぎを中継している様子が放送され、深夜行とはいえ、明日は大丈夫かなぁと心配になった。

帰省を明日に控えて、食材の整理は大詰め。
週末には父が入れ替わりで上京するため、そのために早朝のタマゴの特売の行列に並んでタマゴを購入。この日は20日だったので、移動中の軽食や、帰京後の食料在庫の購入のために、20日のお客様感謝デーであるマックスバリュに行くことにした。

少しでも汗を出せるように、水筒にスポーツドリンクを入れて、日が高い真昼時に出発。途中のラーメン屋で壮行会でも(一人淋しく)執り行なおうと思って、周到に昼食を抜いて出発したが、14時を過ぎているというのに、すごい客でとても入店できそうにない。さすがシルバーウィーク。家族サービスで繁盛している。

しかたなく、昼食を我慢して、直接マックスバリュへ。
入念に1000円分の買い物をし、100円引きの優待券を提出して、950円で精算。


帰りに駅前を通過したところ、献血車が止まっていた。
先日の通院のとき、偶然にも献血の話を主治医に尋ねていて、『献血はしても良い』と言われていたので、さっそくしようと申し込みをした。自転車を漕いで疲れていたので、給水をしながら休養をとって、献血車へ入り問診。

血圧と脈の測定で数字が悪かったので、再測定を繰り返している間、念のためと思い『うつ病の投薬治療中』と直接申告した。主治医から許可を貰っていたので、献血ができることに疑いがなかったのだが、その場で『献血できません』と言い渡され大変なショックを受けた。

抗うつ薬の投薬中は献血はダメだという説明だった。
ならば、なぜ主治医は『献血してよい』と言ったのだろうか。医師なのにそんな事情も知らないとすれば怠慢だし、知ってて良いと言ったのであれば、バカにしているにも程がある。どちらにしても、また医師不信に陥った。

献血を断られて車から出ると、『ジュース1本どうぞ』と言われて、戴ける資格はないと思いながらも、戴いてその場を後にした。ジュースを受け取ってしまったことで、献血できなかった事に対する申し訳なさが倍増して、とても暗い気持ちになった。

先日、ドナーカードを作ったが、献血もできないようでは、内臓など役にたつ論理がない。せめて血肉で人のために・・・と思っても、それすら役に立てない現実に、自分の生存価値がゼロに近いことを強烈に思い知らされた。


生きていれば、命ある動物たちの血肉を食べなければならず、しかし、そうまでして生きている価値もない。
考えたくはなかったけど、ならばやはり死んでしまったほうが、幾分かマシなんじゃないかと思うようになった。

生きていても死んでしまっても、ゴミのような存在なのが今の自分なんだ。
辛い1日だった。
救える命
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