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2004年末に「うつ病」の診断書が出て、翌年3月に職場を退職…人生の歯車が狂って急転直下の転落人生から「再生の道」を探す日々の記録です。 病気の回復はゆっくりですが、焦らずに、めざすは「社会復帰」です!
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干支4周目に突入したアラフォー男子です。仕事しすぎてリタイアしちゃいました。こんなブログを応援してくださる奇特な方は、ポチッとCoRichを押してチョ。
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部屋を暗くして横になって、しばらくして「今、何時かな?」と思って時計を見たら

0:08

だった。
ちょうど寝付けないし、お小遣い稼ぎを少しだけ、やっておこうかなと思って起き上がって、日課を2、3個やった。

そしたら

あれ?







なんか、当選ポイントのケタが違うんですが(^^;)


実は昨日も、「30ポイント当選」なんて出たので、ブログに載せようと思っていたんだけど、スクリーンショットを取り損なってしまって、あら残念という感じでした。


でもまさか、こんなのが当たるなんてねぇ~。びっくりです。
Suicaに変えて、帰りの交通費に使わせて貰います。
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気力が出ない。何もしていないのに、ひどい疲れだ。

お腹は減るけど食欲がない。
食事を見るとウッとなり、食べた後に戻ってくることもある。
今の一日の中で、この食事の時間が最大の苦痛だ。

今ほど気力減退をしていない頃でも、「働かざるもの喰うべからず」の戒めがあって、食べるという事に罪悪感があった。今は「食べる事は生きること」という思いが、自分の希死願望に反応して、自己矛盾の思考ループに陥ってしまう。

はじめは、食卓にたくさんの食事が並んで、それだけでも辛かったが、最近は母が察したのか、だいぶ量を減らしてくれている感じ。でも食べたくない気持ちは同じ。

食卓にならぶ、牛も豚も鶏。きっと彼らの中には生きる喜びを感じていたのも居ただろう。それを殺めて、生きたくないと考える人間が生きるためにそれを食す・・・この不条理が僕にとってはたまらなく辛い。

両親はテレビを観ながら食事をする。このテレビも僕にとってはかなりキツい。
でも、別室で一人で食べるのも変だし我慢をしてその場に居るけど、顔面が引き攣ったり、目元や口元が痙攣してきたりするので、顔を洗うように、何回もゴシゴシやって筋肉を弛緩させる。


祖母が亡くなる前の事を思い出す。
元気がない祖母は食事ができずに衰弱していってしまい、少しでも食べて貰おうと周りはずいぶん苦労をした。でも今にして思うと、食事ができなかったわけではなく、暗に食べることを拒んでいたように感じることがある。おそらく、祖母はあの段階で、死を望んだのではないかという事が妙に共感できるのだ。


今、僕が率直に感じるのは、「万物の命を犠牲にしてまで、生きることに執着はないし、その資格もない」
あるとき父が、ニュース番組を見ていて

「ルールを守らないやつは、みんな消えればいい」

と吐き捨てるように言い放った。


あるとき弟が、接客が上手じゃない店員を見て

「あんなのクビにしろよ」

とサラッと言った。


あるとき弟が、ある出来事を話していて、

「あんなやつ、シネって感じだよ」

と話をオトしたら、みんながワッと笑って、その場が俄かに華やいだ。



彼らが時折見せる剥き出しの牙が、人間の本音の所在を思い知らせる。

彼らが見せた本音は、僕に対して「あなたは居ないほうが良かったよね」と、そう言っているように聞こえてくる。
正月三が日は、東京から弟、名古屋から弟夫婦とオチビちゃんが来訪し、実家と合わせて総勢8人で賑やかに過ごしました。はじめて総出で周防大島の竜崎温泉へ行ったりしました。

楽しく過ぎていく感じもしましたが、小さくコツコツと傷つき続けて、みなが帰った夜に希死願望が沸々と湧いてきました。言葉を交わしたときの語気や言葉の使い方で、なんとなく感じたり、察せられたり・・・そんな機会が多くて。

僕は(なりたくてなったわけではないけど)長子です。ですが、この家の長子として振舞っていくことに、自信がなくなってしまいました。下の弟2人は仲が良いのですが、僕は兄弟関係から区別されてしまっている印象も感じるし、果ては「別に居ても居なくても・・・」という空気をヒシヒシ感じるのです。

弟たちとこういう関係になってしまったのには、僕自身が捲いた種という部分もあります。だから、僕は彼らに対しては何も言う事ができないのです。すべて僕が悪いのだと・・・そう思って飲み込み続けていくしか。


そんな言い方しなくても・・・・。


そういう事で、何度も何度も傷つきました。
自分のアイディアを言っただけなのに、決して悪気があったわけでもないのに・・・。でも、それをたしなめる気力は僕には無いのです。言われっぱなしになって、一方的に傷ついていってしまいます。

みなが帰宅の途につこうかと、日付が変わるころに支度を始めました。でも何時出発というのがハッキリしないままだったので、支度でそれぞれの部屋に戻って行ったときに、僕も部屋に戻ってその時を待っていました。

最後は、みんなと握手をして「また、会おうね」と一声かけようと思っていました。
でも、「じゃ、行くよー」みたいなシグナルがないまま、気がつくと家が静まり帰っているのに気がついて、あわてて家を飛び出したら、もう彼らは出発した後でした。しばしの別れを惜しむことさえ、させてもらうことはできませんでした。


僕って一体、家族の何なんだろう? と真剣に考えました。
みんなにとって、居ても居なくても、どっちでもいいんだろうなって。でも、そんな中に僕が居るのは辛すぎます・・・。だから、消えてしまいたいと思ってしまうのです。


家族というのは離れることのできない一生の絆です。
死ぬまでは・・・。
2009年も間もなく終わろうとしています。
12月31日の大晦日、岩国では雪が舞い、寒い風が吹き荒れています。
明日には我が家に身内が一同に集います。両親は来客と料理の支度に大忙しです。

「年越し派遣村」
絶望的とも思える社会現象で年を明けた2009年。奇しくもその年に「天下分け目の関ヶ原」を彷彿とさせる大イベントが国民の手に委ねられることになります。8月の衆議院選挙です。
国民は、この悪夢とも思える状況の転換を、新しい政権に委ねる判決を出しました。実に308議席という歴史的大勝劇は、国民ひとりひとりの願いの結晶であるといえるでしょう。それだけ国民は、世の中を憂い、良くなってほしいと願っているんだと感じました。

華麗なる新政権の誕生に、多くの国民は「革命の足音」を聞いているのかも知れません。しばらくは暖かく見守る、そう思っていても、それが許されないほど「日本丸」は末期的な症状を呈していました。そして追い打ちをかけるように、日本航空やデフレーション突入など・・・。この難局を乗り越えるために、国民は何をすべきなのか?



僕は療養生活5年目という節目に、漠然と「何かに挑戦する」という事を考えていました。それは同時に、すっかりバカになってしまった「頭の方位磁針」の方向修正をすることに繋げていきたいという期待があっての事です。

春、35歳の誕生日を迎えようとする直前に、そのキッカケが舞いこんできました。

34歳以下ならキャンペーン対象

35歳間近の34歳としては、思わずウズウズしてしまうような売り文句のそれは、自動車の教習所でした。こんな年齢まで免許を持っていないのはイマドキ珍しいですが、僕は自動車をはじめとしてアブラで動く機械には全く興味がないばかりか、むしろ嫌いだったのが理由です。
ところが、ここ数年間、岩国での生活に馴染んでいくうちに、自動車なしで買い物もできない苦労、そんな場所で万一、病人が出てしまった場合の必要性。そしてなにより、エンジンで動く草刈り機を、この手でアブラまみれになってメンテナンスするようになって、少しずつ抵抗感が無くなってきたのが助けになりました。

口座を分けて大切に預かっていた母からの生活援助金を使うのは今だ!と思い立って、駆け込み入所をしました。1カ月の集中通学で、めでたく一度のミスもなく免許発行となりました。
毎回違う教官が助手席に座りましたが、「ちゃんと運転できてるから、ほら自信もって!」と毎回のように励まされたことを昨日の事のように思い出します。5年前の「ある事」だけがキッカケだったはずなのに、あらゆる事に自信が持てなくなっている自分に気付かされました。でも、失墜の原因があらゆる事に波及したように、一つ一つの小さな自信の積み重ねが、喪失した自信を取り戻す種となることを信じます。

免許をとって間もなく、山口・大分・愛媛の瀬戸内縦横断ドライブツアーを敢行。それから、自分の視野が一気に拓けたような気がします。病気を発症したと思われる懐かしい仕事場へも赴いて、気持ちに一つのケジメがついた感じがしました。
少し足をのばして、上関原発問題で揺れている上関町、四代、祝島へも行くことができ、ついには人生初の海外旅行も経験することになりました。異なる地域でも、異文化でも、それに触れることは大変な刺激でした。特に異文化・中国での交流は、時代を知り、中国文化を知ることで、逆に日本に興味を持つようになりました。

日本の良さは何、良くないのは何。
比較対象があると、より鮮明になって解りやすくなる。こういう事はより多くの人に感じて貰いたいなぁと思った。


今年の夏は「総選挙近し」という機運だったので、東京の自宅に滞在して過ごしました。このとき、彼女が病気をこじらせて初めて「休職」にまで追い込まれてしまいそのケアに心を裂きました。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と励ましながら、少しでも食事をするようにして心配なときは一緒に居たりして。たぶん、彼女にしてみたら邪魔だったろうと思うけど、それが僕の彼女に対する愛情だから・・・。僕が両親に助けられたように、心のぬくもりを注ぐことしか僕にはできない。それ以前に「邪魔だからいなくなって」ってなるのかな。バカみたいな事をするのも、一緒に手料理を食べようと思うのも、彼女が幸せを感じ、ニコリと笑っていてほしいと思うから。いつか、彼女に伝わればいいなって信じる。


11月、辞めた会社の九州支部を訪れて、元同僚の方々をお会いできた。新しい社屋は広々していて仕事がしやすそう。活気が感じられなかったのは、人数が少ないせいかもしれない。
組織表は、僕が知らない名前がたくさんあって、もう僕の知るあの会社じゃないんだなーと思う反面、僕が命を断とうとまで追い詰められることになった責任のある人間は、躍進を遂げていた。

僕が病気になり、自殺を考え、仕事を続けられない身になった事が、まるで無かった事であったかのように・・・。

つらかった。


できれば会社の後輩たちと、一緒に協力して仕事ができればいいな・・・なんて楽観的な展望を持っていたけど、この事実は、会社が僕を否定し、存在をも否定しようという意思表示であると受け取った。元同僚は「もうこの会社とは関わらないほうがいい」とアドバイスをくれた。


振り返ってみると、どこに向かっているかは未だ定まらないような感じもするけど、「何か」を得るために行動ができるようになってきたような気がして嬉しい。来年は何かの実りがあるといいなと思う。


今年1年、たくさんの方々にお世話になりました。
皆様、良い新年をお迎え下さい。
ずいぶんご無沙汰していました。
サボり気味のブログとはいえ、こんなに間が開いてしまった事は過去にはありません。。。
数人の知人から「ブログどうしたの?」と言われ心配をかけました。丸3週間ぶりの更新です。


今は、なぜか山口にいます。
「年越しは東京で」と思い、先月末に帰京をしたのですが、思わぬアクシデントに見舞われ、わずか2週間足らずで東京からトンボ帰りです。急なことだったので、飛行機を使って舞い戻りました。
アクシデントの状況を見極めて、年末には再び帰京する心算でしたが、思いのほか長引く様相なので、今年の年越しは身内と一緒に・・・ということになりそうです。

山口の実家では、自宅に居るほどヒマではないので、パソコンの前に座り、お小遣いの日課を済ませると「ヤレヤレ」となって、なかなかブログまで手が回らないというわけです。
年忘れ、年の瀬という気忙しいシーズンでイベントも重なり、おかげさまでヒマすることなく過ごしています。
ドル93円想定の下方修正。
これ以上ドル安が進むことになれば、もう一発ありそうな感じですね。
救える命
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