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2004年末に「うつ病」の診断書が出て、翌年3月に職場を退職…人生の歯車が狂って急転直下の転落人生から「再生の道」を探す日々の記録です。 病気の回復はゆっくりですが、焦らずに、めざすは「社会復帰」です!
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来月、硫黄島の慰霊祭に参列するため、祖母の遺骨を預かることになりました。

そんなわけで、祖母も来たくはなかったとは思うけど、我がゴミ屋敷へ来ることになりました。

リビングの片づけはひと山を越えた状態だったので、惨状を見せることにはならず良かった。

まだ道半ばの片づけの中で、唯一、整然としたパソコンデスクの上で、僕の生活を見守って貰うことにしました。


約1週間のお泊りです。


いま、こうしてブログを書いている隣に祖母が居ると思うと、とても不思議な気分です。
祖母の愛に包まれているような安堵感、不思議な安らぎがあります。

それは、すでに僕が睡眠薬でボーッとしている錯覚かもしれませんが・・・。


僕が病を得て、初めて実家を訪れたころ、祖母は年相応に元気でした。
ですが年相応に衰えてもおり、「心配しはじめると収拾がつかない」という母の判断で、僕の病の事は本人には伏せてありました。

でも、本来ならウィークデーで働いているはずの若者が、何カ月も居座っている事に、年老いた祖母も祖母なりに「何か」を感じたのだと思います。

その後、僕は東京に戻ったのですが、祖母から一通の手紙が届きました。
目が良くみえず、筆を持つ手もおぼつかない、まるで3歳児が書いたような大きな字で、手紙いっぱいにメッセージが書き込まれていました。

さほど長い文章ではありませんでしたが、祖母の「愛情」という名の手紙でした。


死のうと考え続けてきた僕にとって、その手紙は辛く、切なく・・・でも、それ以上に不自由な身体で懸命に書いて、おそらく母に反対されたであろう手紙を出してくれた、その愛情が心に響き、涙が止まらなかった事を思い出します。


祖母はそういう人でした。


祖母を我が家に招いたのは初めての事です。
亡くなってもなお、僕の心をどこかで支え、見守ってくれ、こうして傍に来てくれた事に感謝!

しばらく、晩酌につきあってね、おばあちゃん!
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