2004年末に「うつ病」の診断書が出て、翌年3月に職場を退職…人生の歯車が狂って急転直下の転落人生から「再生の道」を探す日々の記録です。
病気の回復はゆっくりですが、焦らずに、めざすは「社会復帰」です!
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長く封印してきた彼女とのことを少し書こうと思います。
一方的な状態が長く続いてしまい、思いを抑えることが難しくなってきてしまいました。
以前にも触れたように、うつ病との闘病歴でも僕の大先輩にあたります。僕が同僚として働いていたころにお付き合いをした時には、僕はまだ病を得ておらず、またうつ病に対する知識も持ち合わせておらず、それに対する配慮を著しく欠いていただろうというのは今になってもそう感じます。
僕はその直後に、奇遇にもそのうつ病を発症してしまい、直後に会社を退社することになって同僚という関係ではなくなりました。数年後に久しぶりに再会を果たしてから、また誼を戻して1年半になります。
今年の夏。
長年の心労の蓄積もあって、彼女は初めて気力ではカバーが効かないほどの倦怠感に襲われて、初のドクターストップを味わうことになります。僕の場合は、うつ病がもたらす集中力と注意力の欠陥が、高い集中力を要求する職務に当たるに致命的であると判断し、退職という道を選択せざるを得ませんでしたが、彼女の場合は事務職ということと、社に戻りたいという信念があって、休職という道を選択しました。
休職中もスグに快復に向かうほど単純なものではなく、復職の予定日が一刻一刻と近づくたびに焦りと不安が膨れ上がってきてしまいます。休職の本来の目的は絶対的に休養なのですが、限られた日限では、なかなか困難なことなのです。
彼女も例外ではなく、復職を1週間後に控えた日になっても、食事を満足に採ることさえできない状況でした。
普段は、平日の勤務で憔悴し、週末にはとりつくしまもなく「疲れてるから…」とツレない彼女も、このときばかりは参ったようで、僕は珍しく週イチのペースで家まで通い、買出しに出たり、食事を作ったり通院を付き添ったりすることが出来ました。
その後、見事に仕事に戻った彼女はというと・・・休職前に逆戻りです。
しばらくは、長期休暇明けというプレッシャーと再発の不安に晒されながら、休職前よりもハードな平日を過ごしていたものと想像できます。以前よりも週末の休養が貴重な時間になると思った僕は、東京に居ると、ついつい出てしまう「老婆心」を抑えるのが難しいため、何の目的も持たずに東京を離れることにしました。
病症が出ているとき、テレビの音が耳障りだったり、突発的な音(携帯電話の着信音など)、それから文章への理解度が極端に落ちるという症状が出ます。それを配慮して、だいたい3日に1通、少ないときには週に1通、週末に「お仕事おつかれさま」という簡単なメールを毎週送っていました。
「紅葉がキレイな季節に帰るから、一緒に行けたらいいね」なんて話も交わしていました。
ところが、10月の中旬あたりから、返信が来ていたメールがプッツリと途絶え、音信不通のまま1ヶ月が過ぎました。
さすがに心配になり、電話をしようと考えました。
しかし、僕は電話をするという事には、とても慎重になり、かなりの決心と勇気が必要なんです。
というのも、僕自身、うつ病が重度に陥ったときに経験しているのですが、電話のような突発的な音撃には極端な恐怖が芽生え、動揺と混乱を誘引してしまう場合があるのを知っているからです。
ただ、このまま音信不通のままだと、少ない情報のまま状況を推察しても、想像が無限に拡がってしまい、最悪は事件に巻き込まれたとか、入院したとか、あるいは病症の悪化で自らの命を・・・ということも考えられます。そこで意を決して電話を試みました。
出てくれませんでした。
でも、その直後1通のメールが届きました。
「いろいろと大変で、心身疲れていますが、なんとかやっています。落ち着いたら連絡をします」
そんな内容でした。
とりあえず、携帯電話が繋がる場所に居て、やはり想像していたように具合はよろしくないらしい。という事がわかったのは、内容はともかくとして安心するには十分でした。
それからまた三週間が経ちました。
こちらの行動連絡と、週末の「おつかれさま」メール。調子が悪いのは分かったので、今までどおり100字程度の短い文章で毎週労い続けています。こんな些細なことでも、少しは彼女の支えにはなるかな?という一心です。
あいかわらず返事はありません。
三週間もあれば、状況はかなり動く可能性があります。あの後、入院しちゃったんじゃないかとか・・・とにかく色々と考えてしまいます。それで、考えた末、また電話をすることにしました。僕はこの決心をする度に、相手の辛さを思い、心を悩ませて、自分も悩み疲れ果てて電話をするのです。たとえ、そこに元気のない声が聞こえてこようと、「あー生きててくれた」と思えることが、どれだけの救いになるか・・・。
そんな祈るような期待も虚しく、電話はつながりませんでした。
契約は続いていることと、コールをしている(繋がる場所に居る)ということが解ったことだけが救いです。
この1ヶ月半の間に届いたメールはわずかに1通。ほとんど音信不通で状況も解らないのです。
僕が心配をしているであろうことは、容易に察しがつくところです。病症がひどければ、そのようなゆとりがなかなか無いという事は僕でも解るけど、少ないゆとりのほんの一部を割いて、電話の一つでも掛けてくれれば・・・と期待してしまいます。
それを許さないのが うつ病。
この件を聞けば、多くの人が「絶対おかしい」と言うでしょう。うつ病を身をもって知る僕でさえも、この状況には非常に懐疑的なんです。相手の事を少しでも考えられる人であれば、このような状況には陥ることはないだろうと。
それを、ぜんぶ「病気だから」というところで落とそうとして、彼女自身の格を疑いたくないという僕の気持ちが、客観性を失わせ、盲目にしてしまっているのかもしれません。
「信ずる者をひたすらに信じ、それに殉じるがごとく生きる。」
この自分の生き方は、自分がうつ病になってしまった原因の一つであると解っていても、捨てきれない。この一途さが自分の誇れる一面だと思っているのです。でも、それは時には長く辛く苦しい忍耐という試練を与えます。
残念ながら、それを越えたときに報われるとは限りません。
「信じるものは救われる」という格言はウソだったという事は、自身の経験で証明されてしまいました。
心の古傷がうずくのです。今回の事も、最後は僕にとっては悲しい結末になるではないか・・・という予感がします。
一方的な状態が長く続いてしまい、思いを抑えることが難しくなってきてしまいました。
以前にも触れたように、うつ病との闘病歴でも僕の大先輩にあたります。僕が同僚として働いていたころにお付き合いをした時には、僕はまだ病を得ておらず、またうつ病に対する知識も持ち合わせておらず、それに対する配慮を著しく欠いていただろうというのは今になってもそう感じます。
僕はその直後に、奇遇にもそのうつ病を発症してしまい、直後に会社を退社することになって同僚という関係ではなくなりました。数年後に久しぶりに再会を果たしてから、また誼を戻して1年半になります。
今年の夏。
長年の心労の蓄積もあって、彼女は初めて気力ではカバーが効かないほどの倦怠感に襲われて、初のドクターストップを味わうことになります。僕の場合は、うつ病がもたらす集中力と注意力の欠陥が、高い集中力を要求する職務に当たるに致命的であると判断し、退職という道を選択せざるを得ませんでしたが、彼女の場合は事務職ということと、社に戻りたいという信念があって、休職という道を選択しました。
休職中もスグに快復に向かうほど単純なものではなく、復職の予定日が一刻一刻と近づくたびに焦りと不安が膨れ上がってきてしまいます。休職の本来の目的は絶対的に休養なのですが、限られた日限では、なかなか困難なことなのです。
彼女も例外ではなく、復職を1週間後に控えた日になっても、食事を満足に採ることさえできない状況でした。
普段は、平日の勤務で憔悴し、週末にはとりつくしまもなく「疲れてるから…」とツレない彼女も、このときばかりは参ったようで、僕は珍しく週イチのペースで家まで通い、買出しに出たり、食事を作ったり通院を付き添ったりすることが出来ました。
その後、見事に仕事に戻った彼女はというと・・・休職前に逆戻りです。
しばらくは、長期休暇明けというプレッシャーと再発の不安に晒されながら、休職前よりもハードな平日を過ごしていたものと想像できます。以前よりも週末の休養が貴重な時間になると思った僕は、東京に居ると、ついつい出てしまう「老婆心」を抑えるのが難しいため、何の目的も持たずに東京を離れることにしました。
病症が出ているとき、テレビの音が耳障りだったり、突発的な音(携帯電話の着信音など)、それから文章への理解度が極端に落ちるという症状が出ます。それを配慮して、だいたい3日に1通、少ないときには週に1通、週末に「お仕事おつかれさま」という簡単なメールを毎週送っていました。
「紅葉がキレイな季節に帰るから、一緒に行けたらいいね」なんて話も交わしていました。
ところが、10月の中旬あたりから、返信が来ていたメールがプッツリと途絶え、音信不通のまま1ヶ月が過ぎました。
さすがに心配になり、電話をしようと考えました。
しかし、僕は電話をするという事には、とても慎重になり、かなりの決心と勇気が必要なんです。
というのも、僕自身、うつ病が重度に陥ったときに経験しているのですが、電話のような突発的な音撃には極端な恐怖が芽生え、動揺と混乱を誘引してしまう場合があるのを知っているからです。
ただ、このまま音信不通のままだと、少ない情報のまま状況を推察しても、想像が無限に拡がってしまい、最悪は事件に巻き込まれたとか、入院したとか、あるいは病症の悪化で自らの命を・・・ということも考えられます。そこで意を決して電話を試みました。
出てくれませんでした。
でも、その直後1通のメールが届きました。
「いろいろと大変で、心身疲れていますが、なんとかやっています。落ち着いたら連絡をします」
そんな内容でした。
とりあえず、携帯電話が繋がる場所に居て、やはり想像していたように具合はよろしくないらしい。という事がわかったのは、内容はともかくとして安心するには十分でした。
それからまた三週間が経ちました。
こちらの行動連絡と、週末の「おつかれさま」メール。調子が悪いのは分かったので、今までどおり100字程度の短い文章で毎週労い続けています。こんな些細なことでも、少しは彼女の支えにはなるかな?という一心です。
あいかわらず返事はありません。
三週間もあれば、状況はかなり動く可能性があります。あの後、入院しちゃったんじゃないかとか・・・とにかく色々と考えてしまいます。それで、考えた末、また電話をすることにしました。僕はこの決心をする度に、相手の辛さを思い、心を悩ませて、自分も悩み疲れ果てて電話をするのです。たとえ、そこに元気のない声が聞こえてこようと、「あー生きててくれた」と思えることが、どれだけの救いになるか・・・。
そんな祈るような期待も虚しく、電話はつながりませんでした。
契約は続いていることと、コールをしている(繋がる場所に居る)ということが解ったことだけが救いです。
この1ヶ月半の間に届いたメールはわずかに1通。ほとんど音信不通で状況も解らないのです。
僕が心配をしているであろうことは、容易に察しがつくところです。病症がひどければ、そのようなゆとりがなかなか無いという事は僕でも解るけど、少ないゆとりのほんの一部を割いて、電話の一つでも掛けてくれれば・・・と期待してしまいます。
それを許さないのが うつ病。
この件を聞けば、多くの人が「絶対おかしい」と言うでしょう。うつ病を身をもって知る僕でさえも、この状況には非常に懐疑的なんです。相手の事を少しでも考えられる人であれば、このような状況には陥ることはないだろうと。
それを、ぜんぶ「病気だから」というところで落とそうとして、彼女自身の格を疑いたくないという僕の気持ちが、客観性を失わせ、盲目にしてしまっているのかもしれません。
「信ずる者をひたすらに信じ、それに殉じるがごとく生きる。」
この自分の生き方は、自分がうつ病になってしまった原因の一つであると解っていても、捨てきれない。この一途さが自分の誇れる一面だと思っているのです。でも、それは時には長く辛く苦しい忍耐という試練を与えます。
残念ながら、それを越えたときに報われるとは限りません。
「信じるものは救われる」という格言はウソだったという事は、自身の経験で証明されてしまいました。
心の古傷がうずくのです。今回の事も、最後は僕にとっては悲しい結末になるではないか・・・という予感がします。
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